環境に適応し過ぎてみるということについて

研究室の普段使いのパソコンが昨日の全学停電から起動できなくなった。
デル社のサポート体制に関心しつつ淡々とトラブルシューティングを行ったが、
結局のところ要修理でファイナルアンサー。
折悪しく科研費申請書の締め切り間際だったこともあり、
これまでの僕ならばギャーとか叫びそうな状況のはずだが、
最近になってgmailgoogle notebook に乗っかって
データをgoogleのサーバーにおいておいたおかげで
仕事の遂行にはたいしたダメージを受けずに済んだ。


そういえば先日の海外出張時にもインターネット喫茶さえあればなんとか間に合ってしまったし、
僕もどうやら本格的にサイバースペースの住人になりつつあるのかもしれない。
多少の躊躇はあったし、リスク評価はまだなのであるが、住めば天国。大変に便利である。


現在唯一困っているのは、使い慣れたマウス環境や、かな漢字変換などのマンマシンインターフェースを失ったこと。
たとえば僕の癖をよく覚えこませたIMEを触れないのは痛い。
データの欠測を結束にされちゃったり、帰無仮説を金仮説にされるとがっくり。
いつかはマイ辞書をウェブ上におくことができるようになってほしいけども、
今はマイ環境のカムバックを待つばかり。
特殊なキーボードに特殊な機能を持たせて使っている人たちを複数知っているけど、こういうときにどうするのかしら。


のこぎりやかなづち、バットやラケットのような原始的な道具でさえ
慣れた人間にとって手足と同様に切り離せないものになる。
インターネットもたかだか人間の道具であるが、
人間および、人類のもつ知識と思考のますます大きな一部を担いつつある。
そりゃぁ中毒になる人間も続出するだろうし、
恐ろしさもひとしお感じる。


しかし、リスクはどこにだってあるのだから、こういう恐ろしさはとりあえず軽視してよいと思っているし、
こういう外部環境への取り返しのつかないほどの過適応にこそ
人生の醍醐味があるかもしれないと思っている。
競走馬とジョッキーの人馬一体、サッカーにおけるチーム一丸、
((ええと、あと夫婦二人三脚とか))。
何につけ、一歩二歩踏み込み過ぎたヤバい状況から先にしか
「思いもよらないもの」は無いのだ。