ロボットと学習

うちの研究室では、
あらかじめプログラムしておく事項を最小限に抑えながら、
変化する環境に自律的に適応し学習していくロボットを作ろうとしている。
つまるところ最小限の労力で最大限の効果をあげるような行動パターンを
自らの学習によって作り出させようとしているわけだ。


しかしよく考えてみて欲しい。
最小限の労力で最大限の効率をあげようとしているような人間がいたとして、
それを通常何というか?ロボットのような人間と言わないか。
「夢のロボット」が目指す先が「ロボットのような人間」であるのは何かおかしくないか?


金、名誉、地位、権力、等々人間が求めそうなプラス価値を持つ何物かを目標に据えたとしよう。
それを得るための労力をマイナスと捉えて、マイナスを最小にしつつプラスを最大にするのだ、という考え方は常識であるが、ここが既に落し穴なのだ。
人間はもっと進んで労力を使うべきだし、
労力を使うことそれ自体が喜びであり目的になり得る。
スポーツは勝ち負けを目的として仮設しながら、その実、
そこへ向かう過程自体を楽しむ文化装置として機能しているではないか。
この点にもっと自覚的になる必要がある。


自覚的になるということはどういうことか?


研究者として言うならば、
その点をきちんと定式化してロボットに実装してみればいい。
生きる喜びに打ち震えるロボットがいたっていいじゃないか。
具体的なアイディアはここでは差し控えておく。


人間として言うならば、
目の前の仕事を、最小化するべき無駄な必要悪たる労働などと捉えるのか、
それともまるでスポーツの過程のようにそれ自体を目的とするのか、
その価値付けを意図的に選び取ってしまえばいい。
意図的に起こすこの価値転倒のことを、革命もしくは洗脳と呼ぶ。


そして再び研究者として言うならば、
この価値転倒の過程を脳内の現象として捉える方法はあると思うし、
それを支援する方法も存在し得る。(体系化された方法として、実は伝統的なものから新奇なものまでいろいろあるようだ)


ロボットのような人間が、ロボットのような人間としてただ存在することに意味は無いと思う。「ロボットのような人間」のようなロボットも、同じ意味で面白くない。


しかし、ロボットではない自然状態の人間が
自らをロボットのように鍛え上げるその過程、これ自体は尊いと思うし、
むしろ人間的であると思える。
また「「ロボットのような人間」のようなロボット」を作り上げる過程自体は、
それが挑戦である以上は、実は人間的なのだ。
矛盾のようではあるが、実ははっきりと違う。重要な違いだ。
目標に照らしての正邪ではない。今この瞬間のありようがまったく違うのだ。
この微妙な矛盾、微妙な違いについて、はっきりと区別できるようになってきたのは明らかに岡本太郎の影響だと思う。


生きる喜びに打ち震えるロボットがいたっていいじゃないか。


まずは、ヒップホップのロボットダンスを踊るロボットが見てみたいところである。