二本指回し

上級者向けの二本指回しというものに試しに取り組んでみた。
一ヶ月前に指回しに取り組み始めたころの薬指くんのように
一回転ごとにむむむむむと唸りたくなるほどの
「つたない感じ」でしか回らない。


目の前で繰り広げられる
よちよち歩きの大奮闘をよそに、
頭の中がめきめきと明晰になってくるのが感じられ
確かにこれだ、という手応えを得る。


「やってみる」「回してみる」というのと
「取り組む」というのとはちょっとだけ違う。
ちょっと違うだけであるが、ここが奥義であって
その意味は大きくて深い。


僕が指回しにハマったのは、
早い段階でこの奥義を掴んだからだ。その確信を日増しに強めつつある。
先日の日記で書いたのはまさしく、そのエッセンスである。
実は相当に気合いを入れて要点を絞って書いてあるので
本気で読んでもらえると嬉しい。



取り組むというのはどういうことか。
できるからやるのではなくて、できないからこそやる
自分の至らなさを見据えながら、そこでめげずにやり続ける。
つたないながらも回す毎に
ほんの少しだけうまくいったりいかなかったり
その新しくて微妙な感覚をつかまえて自分を慣らしてゆく。


自分は何かに取り組んでいるだろうか。
できることをただやる。
誉められるからやる。
給料をもらえるからやる。
なんとなく慣れで生きていたりしないだろうか。


生きる姿勢、というところまで言っちゃうよ。
僕という人間はどういう心持ちで生きていけばいいか
と、青い頃から考えていた。
今も考えているから、まぁ青いのだけど、まぁ放っといてください。


赤ん坊がはいはいを覚え、たっちを覚え、歩くことを覚えてゆく過程
言葉を覚え、箸の使いかたを覚え、トイレでの座りかた、ウン○の出しかたを覚えてゆく
もしもそういうときの姿勢と心持ちでもって
研究室で論文を読み、キーボードに向かい、プログラムを組み、
人と会い、話し、議論していけたなら
何をするにもその一瞬一瞬それ自体に甲斐があるに違いない。


研究とか創造というものの原点は、歩き初めの赤ん坊が
その二歩目の足をたった 1 mm 奥側に置くか手前に置くかを
内的感覚の中で見つけてゆく取組みなのだ。
それが嬉しいから、何かを創造し、何かを研究しているのではないだろうか。

全ての夾雑を削ぎ落としていって残る純粋な喜びは
たぶん、ここにある。



まぁいいや、純粋とか、原理とか、喜びとか、本質とか、
そういうのを置いといて、
問題は姿勢であり、脳の状態だけだとしよう。
ある方向に向いて創造的な姿勢をとることができれば
その姿勢で別の方向に向いても同じ姿勢をとることができる。


ウェブサーフィンしてて十分にぼんやりしたところで、
さて研究でもするか、
ってそんなことできるわけないじゃん。


では僕らは研究活動にどういう姿勢で取り組んだらよいものでしょうか。


指回しに取り組み初めて一ヶ月
効果が上がること、そしてその内容、その即効性、確実性、再現性を見て
そしてその理由と原理とを考え続けてきた。
その結果、
人生の小さなこと大きなこと全てに
指回しに取り組む姿勢をもってあたればいい
と、そこまで極端なことを思うようになっている。


ここまで極端なこと言うのは極端であってたぶん言い過ぎだと思う。
なおかつ熱し易く冷め易いわたくしであることを割引いて考えてほしいが
それでも何かありそうと思うひとがちょこちょこ出て
毎日たった3分間本気で取り組んでくれたらいいのに
と、これは実に本気でそう思っています。