『水からの伝言』とパターン認識的思考

  • 科学 vs. 非科学

もしくは

  • 科学 vs. 宗教

の対立での枠組みで捉えられることの多かった『水からの伝言』問題だが、
宗教(というかむしろ倫理)の立場からの意見を聞いて、納得の度合を深めた。
http://d.hatena.ne.jp/hamlet-r/20051221#1135161418

ハムレット氏曰く
> 1. 「ありがとう」等、感謝の言葉を水に伝える → 水がきれいな形の結晶になる。
> 2. 「呪ってやる」等、憎悪の言葉を水に伝える → 水が乱れたな形の結晶になる。
>
> これの対偶を考えれば、分かりやすくなる。
>
> 1. 水の結晶がきれいな形をしていない。→ 関連している人は感謝の気持ちが無い。
> 2. 水の結晶が乱れたな形をしていない。→ 関連している人は憎悪の気持ちがない。
>
> どう考えても、おかしいだろう。


要するにカギは「科学」「非科学」「宗教」「倫理」以前に、
「論理的思考ができるか否か」というところにあるのではないか。
対立軸でいえば

  • 論理的 vs. 非論理的

ということだが、『水からの伝言』を喜ぶ非論理性の具体的な内容を考えてみるにあたって、

と仮に言ってみたい。

パターン認識的思考とはどういうことか。

人間が人の顔を認識するさいには、各部分に対する分析的な特徴を自動的に総合して判断を下していると考えられているが、このような認識様式をパターン認識という。機械にはできない、知的生物ならではの高度な能力である、と考えられてきたが、ここ20年ぐらいの、人工知能分野、ニューラルネット分野での研究の結果、ほぼ十分な数理モデルができあがったと思われている。

思考がパターン認識的であるとは、正しいこと誤っていること、良いこと悪いこと、の判定を全体的な印象で行っていることを意味する。例えば文章が科学的であるかないかの判断を、文章に含まれる科学っぽい言葉、(たとえば「証明」とか「実験」とか「量子力学」とか「アインシュタイン」とか) の含有率に基いて行うのはいかにもパターン認識的である。

パターン認識的思考では判断を下した後に、何故そういう判断が下ったかに関する反省がない。
多くの要因を組み合わせて判定を下す高度で自動的なプロセスなのであるから、これは原理的にしかたのないことである。
判断に対して何故?と問われて、黒猫→魔女→悪い、とか、科学っぽい→正しい→良い、とかいう連想の芋蔓をひっぱり出してくるぐらいが関の山であるならば、それはパターン認識的思考だけであった証拠である。

では論理的な思考とはどういうことであったか。

論理的な判断とは、判断の根拠を一つ一つ明確に挙げて、根拠から結論に至る筋道を明確に示すことである。
これを作り上げる過程が論理的な思考であるし、根拠と筋道を言葉のうえで共有しつつ行う議論が、論理的な討論である。

しかし論理的な思考をする人は、パターン認識的思考を一切しないのかと言えば、いやとんでもない!
どの根拠が、どの筋道を通って、どういう判断につながるか?そういう論理的な議論の筋道について、それを見出す過程を反省してみれば分かる。論理的な思考を行うさいにも、パターン認識能力をフルに援用しているに決まっている。

やはり判断はまずパターン認識的に出すのだ。そのうえで、その根拠になりそうな物事をパターン認識的に探すのだ。そのうえで根拠と結論を結ぶ論理的筋道をパターン認識的に探すのだ。それ以外にどのような探しかたが有り得るだろうか?

したがって論理的な思考とは、
パターン認識的思考によって下した判断を、根拠と結論とを結ぶ筋道を得ることができるまでは信用しない。
という判定基準を持ち続けることだと言えそうだ。


以上考え合わせると、対立軸は、

ということか??


時間になってしまったので、書きっぱなしで投稿します。続きはまたいつか書くかも。